2015年1月7日水曜日

【新年企画】韓国・ソウルの中央アジア人街へのご案内

見渡すと目に入るのはキリル文字のカラフルな看板、
道往く人々の話し声から聞かれるのはロシア語や中央アジアの諸言語、
通りを歩くと香るのは鼻にもよく馴染みのジラー(クミン)の香りと、焼きたてのノン(中央アジアで広く食される円形のパン)の香ばしい香り・・・


信じられるだろうか ——
ここはお隣、韓国の首都ソウルの中心部での光景なのだ。


ここはソウルの中心部、東大門地区の一角にある、
その名も通称「東大門・中央アジア通り」(동대문 중앙아시아 거리)。
ソウル地下鉄の東大門歴史文化公園駅から歩いて5分、そこには冒頭のような光景が広がっている。日本から最も近い中央アジアは、ソウルにあった。


こんな風に、ハングルに混じって、さも当然のようにキリル文字で書かれた看板があちこちに見受けられる。上記のは左側が服飾店(靴下やストッキング)、右側が婦人服店。


中央アジア通の中でも、知る人ぞ知る、この「中央アジア人街」
この地区に足を踏み入れると、キリル文字で書かれた看板の多さは然ることながら、サマルカンド(СамаркандとかSamarqandとか・・)という単語が多く目に入る。
この地区に暮らす中央アジア人の中では、とりわけウズベキスタン・サマルカンド出身の人が多いらしく、あちこちでロシア語のみならず、ウズベク語やタジク語をごちゃまぜにして話しているのが聞こえてきた。(サマルではタジク系の人が多数なので、タジク語が広く話されている)


奥も手前も、店名はSamarqand (Самарканд)
いずれもサマルカンド出身のウズベキスタンからの移民が営む店だった


通り過ぎたおばちゃん2人組は、この地区では比較的珍しい韓国の韓国人かなと思ったら、話している言語はロシア語だった。おそらく中央アジア出身の朝鮮人に違いない。

ウズベク料理店CAFE UZBEKISTANに入るなり、Здрастеとロシア語で挨拶をされたので、こちらはSalom alaykumとウズベク語で返してみた。すると、それ以降はウズベク語話者認定されたらしく、ウズベク語に切り替わった。そして不意にロシア語にシフトしたので、まるでウズベキスタンに帰ったような気分になった筆者は大興奮。
そして店員同士はロシア語混ざりのタジク語で会話しており、ウズベキスタン出身なのに、店内で流れていた映像はタジキスタンのラフモン大統領の年頭挨拶だった・・・ (彼らの母語はきっとタジク語なのだろう)


この言語カオスさが・・・良い!!たまらん!!

"CAFE AFROSIYOB" といういかにもな名前のウズベク料理店にて。
店主も料理人も店員もサマルカンド出身者で、プロフなどもサマル風。
店にはこの地区に暮らしているらしい、モンゴル人のグループもランチ中だった。


この中央アジア人街だが、ソウル地下鉄「東大門歴史文化公園駅」(クリックで駅周辺の地図をGoogle Mapで表示) のすぐそこにある。
オススメは5号線の5番出口からのアプローチ。
5番出口を出てすぐに右側、50mほど先にキリル文字の看板が見えるだろう。そちらを目指して歩いていくと、そこにはまずモンゴル人が多く暮らす地区が広がる。その隣の通りがウズベキスタンやカザフスタンをはじめとする、中央アジアの料理店や旅行代理店が多い地区だ。

なお、出口を出て左側には赤い目立つКЫРГЫЗСТАНと書かれた看板(上の写真)があるが、それと逆の方向だと覚えておくとよいだろう。(これはクルグズ料理店なのかな・・?)
「東大門歴史文化公園駅」周辺、中央アジア人街周辺地図。クリックで拡大。


近年ウズベキスタンをはじめとする中央アジア諸国から多くの労働者を受け入れている韓国。ウズベキスタンを例にとると、公式データによれば2007年以降2万人ほどのウズベキスタン国民が韓国に出稼ぎに出ているのだという。** [1]

ソウルに居住する中央アジアからの労働者の多くはこの地区に暮らしている。
どうやら、初期に移住した労働者が東大門市場で布地や衣料品の商いを始めた都合で、彼らを頼って次々と中央アジアから労働者がやって来ては、また彼らを頼って別の労働者がやって来て・・・という歴史があるらしい。(なんとも中央アジアらしい)
現代においては、布地や衣料品は絹ではなく化繊になったが、現代によみがえりし「絹の道(シルクロード)」のようだ。


それにしても、なぜ韓国なのだろう?と思う方も多いことだろう。
歴史はスターリン期のソ連邦時代まで遡る。この当時、現在の北朝鮮と国境を接していたソ連邦の極東の沿海地域には多くの朝鮮人(高麗人、コリョサラムとも)が暮らしていた。
Школа № 33, колхоза им. Свердлова (Синёндон) 1953 г.
第33番学校、コルホーズ「スヴェルドロフ」(シニョンドン)、1953年
"Корё Сарам - Записки о корейцах" より


しかし、悲劇は1937年の秋に起こった。この地域に暮らしていた約17万人の朝鮮人が、まるごと現在のカザフスタン(9万5千人)・ウズベキスタン(7万5千人)に強制移住させられたのだ。** [2]
スターリンはソ連邦内の民族主義的な要素を徹底的に排除し、中央集権的な統制や民族分散政策を強行するため、国内の様々な民族をまとめて他地域に強制移住させるという、強硬的な政策を実施したのである。


この背景には、ソ連邦政権がこの地域の朝鮮人と日本が繋がっている( = つまり日本が朝鮮人を利用してスパイ行為をしている) と疑ったことにある。** [3]

1930年代、極東沿海地域の国際関係は急速に緊迫した。1931年の柳条湖事件を発端とする満州占領、翌年の満州国建国と、この地域はソ連邦と日本がぶつかる最前線となったのである。
ソ連邦当局にとって国境を自由に行き来する朝鮮人は長らく悩みの種であり、さらに朝鮮半島は日本から程ない距離にあることから、この地域の朝鮮人と日本人の繫がりが疑われたのだ。** [注1]


前置きが長くなったが、こうした歴史で現在もウズベキスタンの20万人、カザフスタンの10万人を筆頭に、中央アジアには日本人と見間違うくらい同じ顔立ちをした、朝鮮系の人々が多く暮らしている。
よく知られたことだが、韓国政府は海外に暮らす朝鮮系の同胞を積極的に支援しており、例えば1990年代にはアシアナ航空を、2000年代に入ると大韓航空をソウル・タシケント間、ソウル・アルマティ、アスタナ間に定期就航させている。これにより、中央アジアと韓国の間で人々やモノの往来が一気に広まるきっかけになったとか。


バザールでキムチなど、韓国の食材を売る女性。タシケント・ミラバッドバザールにて。


そんないきさつで生まれたのが、この中央アジア人街である。
中央アジアからやってきた朝鮮人たちを筆頭に、ロシア語が通じるつながりでロシア人やウズベク人、カザフ人などが集う地域となった。また、ソ連邦の同盟国でもあったモンゴルからも多くの労働者が集い、中央アジア人街にはモンゴル系の店も多数存在する。

もちろん、この中央アジア人街はガイドブックにも載らないような、ソウルの中でも異色のエリアだ。だが、ソウルにいながらにして本格的な中央アジアの国々の料理を食べたり、日本では中々味わえないエキゾチックなユーラシアの雰囲気を楽しむのはいかがだろう。きっといい思い出になるに違いない。
それから、他の人とはちょっぴり違う、楽しいソウル旅行ができるだろう。


日本からもいちばん近い中央アジアへ、さあ今すぐ出発しよう。
ソウル行きの航空券は今すぐスカイスキャナーで。





以下は中央アジア人街で撮影した写真39枚のスライドショー(説明付き)

【参考文献】
[1] Ozodlik Radiosi O'zbekiston (2013年7月31日記事、ウズベク語)  - http://www.ozodlik.org/content/article/25061772.html (2015年1月閲覧)
[2] 李 愛俐娥 (2002) 『中央アジア少数民族社会の変貌―カザフスタンの朝鮮人を中心に』昭和堂、p.p.290-292。
[3] 木村 英亮 (1992) 『スターリン民族政策の研究』有信堂、p.4。
[注1] しかし、ソ連邦が朝鮮人の背後に感じていた日本の諜報活動の影にはある程度の根拠があった。日本政府は1910年に韓国を併合しており、朝鮮人はすべて日本帝国臣民となったという立場をとっていたのである。そして、日本は実際に満州在住の朝鮮人を利用してソ連邦に対する諜報活動を行っていたという記録も残っている。彼らは沿海州に暮らす朝鮮人の親族や友人を頼ってソ連邦領内での諜報活動を行っていたのだ。日本が朝鮮人を諜報活動に利用したことで、強制移住の悲劇に繋がってしまったという見方もできる。


【そのほか、中央アジアの朝鮮人について参考になる資料や文献】
 
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